不思議なことに12時過ぎくらいになると、猫の合唱が始まります。
それに応えるように、今度は近所の犬たちの合唱。
我が家のイヴ・ナナも即座に警戒態勢。
外の大合唱と内なる大合唱は迫力満点。
主人は閉口して、別の部屋で寝ることになるのです。 |
|
うるさい。
猫たちの大合唱は12時過ぎと決まっています。
あの悲鳴ともつかないような鳴き声・・・・。
苦痛を感じるってことは、やっぱり私は犬派なんでしょうか。 |
|
久しぶりの夜の町。
なぜかやたらと猫を目にします。
ほとんどが哀れを誘う猫ばかり。
そっとすくい取って我が家にお持ち帰り。
そんな気分をやっと抑える夜でした。 |
|
最近、暑くなってきたせいもあって、夜の散歩に切り替えています。
するとね、昼には会えなかった人たちと、久しぶりに会うことが出来ます。
寒い季節になると、これがまた逆になるのです。
そして名も知らぬ彼らと、今日も挨拶を交わします。 |
|
夏になると、暑いのが苦手なイヴはヨタヨタ歩きになります。
イヴが10歳のせいでしょうか、叔母は散歩の時に、しきりと気を遣ってくれます。
帰宅すると、叔母はナナを待たせて、イヴに先に水を飲ませようと必死の構えです。
水も飲まず、ドテっと転がったイヴの姿に、叔母の心配は頂点に達します。
ところが冷蔵庫を開けると、機敏に立ち上がり一目散にダッシュです。
叔母の心配って何でしょう。 |
|
数年前に、「象の時間、ネズミの時間」と言う本がヒットした。
象とネズミでは時間がちがう。
私たちが通過する時間は、生き物の大きさにより違いがあるのだと言う。
この概念に似た小説があった。
「竜の卵」だ。
原始的で、しかも目に見えないほどの生物が、
人間が瞬きする時間に莫大な進歩を遂げるというSF小説だ。
私たちが認識している時間の流れとは別に、
動物の大きさの違いによっても世界感は変わるのだろう。
私がともに生活しているイヴとナナ。
彼女たちの時間と私の時間。
折り合いを付け、ともに共存し、理解と愛を共有したい。 |
|
イヴとナナの一歳の誕生日を思い出してみました。
とても大切だったはずなのに、どうしても思い出せません。
それよりも、ちょっとした一瞬一瞬の記憶の方がフラッシュバックするのです。
イヴとナナの嬉しい顔・悲しい顔・怒った顔・困った顔・・・。
私がそれぞれに笑ったこと、泣いたこと、怒ったこと、大変だったこと・・・。 |
|
散歩の途中、ある交差点に、決まって豪華な花束が置かれている場所があります。
詳細は忘れましたが、新聞にてこの事故を知ったように思います。
この場所で自転車に乗った方が亡くなったのでした。
数ヶ月を隔てた今も、うだるような夏となった今も、花束が絶えることはありません。
イヴとナナを信号待ちさせる時、そっと花束に目を向けます。
置かれている花束から、家族の継続する悲しみを感じます。 |
|